人生ラクに生きようよ

備忘録的に。

レオ様は裏切らない、そしてネトフリマンセー『ドント・ルック・アップ』


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風貌がすごいことになってますが、レオ様です。

オスカーを捕って「タイタニック」のジャックの呪縛から逃れ、心置きなくルックスを生かした役をやってくれるのかなーという庶民の期待を裏切る彼は、まさに役者の鑑っす。

 

Netflix制作なので、劇場に行かなくともあなたのスマホで見れるこの映画、いやー面白かったです。「彗星が激突して地球が滅亡する、どうする!?」という一昔前のSFみたいなテーマ、これが21世紀のアメリカで起こったら一体どうなるのか。第一段階として、まず信じてすらもらえない(レオ達が三流の天文学者であることも相まって)。なんとか頑張って信じてもらったところで、その後もエンヤコラエンヤコラ。

 

これを見るためだけにネトフリに1ヶ月だけ加入する価値ありますよ。映画館で見るより安いしね。でも映画館の大スクリーンでも見たくなる映画。やっぱネトフリは強いわ。

林遣都に迫られても一人の方が楽って言える女子なんて日本にいるのかな「私をくいとめて」

 

 

のんこと能年玲奈林遣都のラブストーリー。原作は綿矢りさの同名小説。

 

ラブストーリーと言っても紆余曲折は一切なく、最初から最後まで両思い。30代にしてなかなかくっつかない二人の”むずキュン”を描いたラブストーリー・・・と言ってしまうとさすがに表面的すぎるでしょうか。

 

のんが演じる主人公は、中村倫也が声を演じる「A」と常に対話をしながら過ごしているんですが、「A」は主人公の脳内にしかいない存在、つまり自分。本当は誰もがやっている自分との対話を、「A」との会話という形で表現しているという格好です。この設定、原作で読んだ時にはなかなか荒唐無稽な、というか入り込めなかった設定ですが、映画はナチュラルでした。のんのいい塩梅にトリッキー(でも可愛い)ところと、中村倫也の声の具合がちょうどよく、違和感なく見れましたね。

 

主人公と思い合っている年下の男性役は林遣都・・・彼の演技は良かったけれど、結構違和感でしたね。のんは1993年生まれ、林遣都は1990年生まれ。年下には見えなかった。。。タメ語を使えない、とむずむずしているのはだいぶ違和感がありました。描写自体はリアルでしたけどね。

 

原作の主人公は結構こじらせ度が強い印象でしたが(綿矢りさが描く女子は大体拗らせてますけど)、映画では結構それが薄められてました。例えば原作では、主人公は別に自炊が大して好きなわけでもないが、好意を寄せる年下の男性にお裾分けするためにクックパッドを見てわざわざ料理を拵えていたんですが、映画ではそれなりに料理好きな女子に見えました(クックパッドのレシピは見てたけどね)。のんが演じているので普通に可愛いし。まあでもこれはこれでありかなと思いました。

 

ディテールも秀逸な映画で、特に主人公が暮らしている部屋の感じはリアルでした。おしゃれすぎず、汚すぎず、小物の一つ一つまでこだわっているのが伝わってきました。

 

ラストで年下男子に迫られた主人公が「好きだけど距離感がわからない、こんな思いをするなら一人の方がよっぽど楽だった!(意訳)」と発狂するシーンは素晴らしかったです。・・・でも実際、林遣都に迫れてそんなこという女子なんているんだろうか?

なんてことはないけどなんかいい、まさにフランス映画「未来よ こんにちは」

 

国は違えど、熟年夫婦が抱える課題は日本と同じなんだなあと。好きな人ができたと出ていった旦那が置いていった花を捨てるシーンが秀逸でした。

 

太った黒猫を飼っている家は、豪華絢爛というわけではないがこざっぱりしていておしゃれ。ファッション誌を見てる気分になれます。

 

惜しむらくは、作品の一つの柱であろう哲学的な部分が退屈だったところ・・・。私の学がないせいか? 多分そうなんだと思います。

 

しかしパンドラが可愛い。そして邦題は酷い。

人生には楽園が必要だってねと西田敏行は言うけれど 『楽園』

吉田修一の二つの短編が原作の映画です。

出演は綾野剛杉咲花佐藤浩市柄本明など。

 

 

実際の殺人事件をフィクションにすることの是非

 

Wikipediaでは「サスペンスドラマ」となっていますが、はっきり言ってサスペンス要素は皆無の映画です。

全く違う土地で起きた実際の2つの殺人事件(「栃木小1女児殺害事件」「山口連続殺人放火事件」)が、同じ土地で起こったという設定で描かれています。

個人的には、実際の事件(しかも比較的最近起こった事件)を題材にしてフィクションを作るというのはあまり好きではありません。事実は小説より奇なりというように、そういった事件が創作者にインスピレーションを与えるのは当然かもしれませんが、被害者たちはそのために殺されていったわけではないので…。

この映画では、加害者(冤罪の可能性はあれど)の環境にフォーカスし、同情的に描かれていたので余計そう思ったのかもしれません。

罪を憎んで人を憎まずという言葉もありますし、こういった事件が起こらないようにするための喚起の意味があったのだとしても、正直被害者や遺族はどう思ったんだろうと思ってしまいました。

 

どこかにあるユートピア

タイトルの「楽園」は、綾野剛佐藤浩市演じる加害者(冤罪の可能性あり)が、楽園を求めて移住して来た、ということから付けられたと思われます。

しかし実際は彼らは田舎の秩序を乱す異端者でしかなく、村八分としか言いようのない扱いを受けます。このくだり、かなり見ていて辛くなります。はっきりいって胸糞悪く、映画だと分かっていても見るのが辛い。

田舎の人たちが完全なる悪者として描かれているように見えてしまったわけですが、彼らにも彼らなりの事情はあったわけで、そのあたりをもう少し描けていればもっと映画に深みが出たのでは?という気がしなくもないです。せっかく柄本明がいたわけですし。

ちなみに、このような描写だけだとロケ地となった地域(長野県らしいです)にも申し訳ないからなのか、祭りの描写や杉咲花村上虹郎の甘酸っぱい恋愛模様などがトッピングのように描かれています。

 

ちなみに、佐藤浩市が加害者を演じた「山口連続殺人放火事件」は「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者という貼り紙が有名なとおり、田舎での村八分が端を発した(少なくとも犯人はそう主張している)事件ですが、この映画の舞台よりはもっと人の少ない限界集落で起きた事件です。

 

雰囲気映画に集まった豪華キャスト

冒頭の通り、全くもってサスペンス映画ではないですし、ラストも中途半端、ただ田舎の鬱屈とした雰囲気を楽しみたいというときにはおすすめの映画です。

キャストはやたらと豪華ですね…。吉田修一原作、というだけでこれだけのキャストが集まるってことなんでしょうか。正直謎です。

監督がこの映画を通して伝えたかったこと、描きたかったことはいろいろあるのかもしれませんが、伝わってこなければなんの意味もないよなと思いました。

不朽の名作を現代で映画化するとどうなるか『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』

長年にわたり読み継がれてきた「若草物語」を、今最も勢いのある女性監督グレタ・ガーウィグと、「レディ・バード」でのグレタとのタッグも記憶に新しいシアーシャ・ローナンが映画化するとどうなるか。

ただの映画化では終わらせたくない、というグレタの信念が込められているような映画でした。

 

綺麗なメグでも病弱なベスでもなく

若草物語の原作を読むと、四姉妹の中でも病弱な三女のベスが物語の基軸となっている印象が強く、またこのキャスト陣で最も著名なのは長女のメグを演じたエマ・ワトソンだと思うのですが、この映画、次女のジョーと四女のエイミーがキーパーソンとなっている印象を受けました。

原作でもジョーは男まさりな女性として描かれていますが、この映画ではそれだけではなく、「私は今が幸せ。一生結婚しない」という意思を持ち、ローリーからのプロポーズを断る女性として描かれています。

一方の四女のエイミーは、「金持ちと結婚するのがあなたの使命」という叔母の言葉を受け、その道を突き進むことを決意しています。

この二人を通して、グレタは現代の、そして昔も描かれはしなかったものの存在していたであろう、女性の幸せや苦悩、そしてその強さを描きたかったのだと思います。

 

結婚・愛・生き方

ベスの死を迎えた後、ローリーのプロポーズを断ったことを「早まったかもしれない」と言うジョーが、彼を愛しているのかとお母さんに問われ、「もう一度言われたらイエスと言う。今は愛するより愛されたいの」と答えるのですが、それにお母さんが「それは愛じゃない」と答えるんです。

And, in the end, the love you take/ Is equal to the love you make.とビートルズも歌っていますが、婚活ビジネスも乱立している昨今、愛とはなんなのかについて、皆が一度考えてみるのもいいのかもしれないなと感じました。

みんな自分の物語の主役『物語なき、この世界。』

作・演出 三浦大輔岡田将生峯田和伸主演の舞台。

2021年7月23日、シアターコクーンにて観劇。

 

 

1幕のドキドキを返して

1幕はすごく良かったです。岡田将生峯田和伸のぎこちない会話、ユニークな風俗店での出来事、そして事件の勃発、、と、あっという間に感じました。こんなに1幕があっという間に感じた舞台って初めてだったかも、というくらいに。

2幕は残念でした…。前半のカラオケボックスでのシーンは良かったと思うんですが、割と早い段階で事件の結末が見えます(大半の人の予想通りではあったでしょう)。そこからが長い。

そこからのくだりこそが、三浦大輔氏が描きたかったことなんだろうというのはわかるんですが、1幕まであったリアリティがどっかへ吹っ飛んでいっちゃったような気がしました。というか「物語」「物語」ってみんな連呼しすぎ!

なんか、本当に言いたいことだとしても、そんなにストレートに伝えないでよ…と思いました。テーマ自体は良かったと思うので残念。

 

歌舞伎町感は感じないセット 

歌舞伎町が舞台ということで、クルクル転換するセット(人力でした)とプロジェクションマッピングで歌舞伎町の街並みを再現していましたが、うーん、なんか歌舞伎町感がなくて、普通にシアターコクーンって感じがしたのは残念でした。なんか、異国情緒感がありすぎた気がする。中国ぽかったです。もう少し後ろから観てたらまた違ったのかなあ。

 

キャストは豪華 豪華すぎ?

しかしキャストは豪華でしたね。主演の二人だけでも相当豪華ですが、柄本時生内田理央宮崎吐夢寺島しのぶ…。ちなみに峯田さんは歌とギターまで披露してくれました。贅沢すぎでしょ。

岡田さんと峯田さんの二人芝居はすごく良かったですが、正直同い年には見えなかった…。峯田さんは実年齢よりはすごく若く見える方ですが、岡田さんもそうなので…。

 

全体的にちょっと残念な部分もあったけど、峯田さんの歌も聞けて贅沢な舞台でした。

日本中から叩かれた人の生き様その2『FAKE』

交響曲第1番《HIROSHIMA》』

この曲名を忘れている人も、佐村河内守、と聞けばピンとくるでしょうか。

耳の聞こえない作曲者として脚光を浴び、その後のゴーストライター問題で大炎上したあの長髪の男性です(記者会見時は短髪)。

 

そんな佐村河内守氏を題材に、森達也氏が撮影したドキュメンタリーが『FAKE』です。

 公開当初は非常に話題になり、私も満席状態の劇場で観ました。

ドキュメンタリー映画は総じて円盤化されないことが多いですが、これはバッチリ市販されているんですよね…ということは、佐村河内氏にとっても満足のいく作品だったということなのでしょうか。お金に困っているのかもしれませんけど。

 

憎めない男・サムラゴーチ

 

佐村河内氏といえば、世間一般には袋叩きに遭っていた記者会見の印象が強いかと思いますが、このFAKEを見れば段々と彼が愛おしくなってくることは間違いないです。

豆乳を一気飲みし「豆乳が好きだから」と笑顔で語るゴーチ。テレビ番組のディレクターに乗せられて軽快に頬をポコポコ叩き出すゴーチ。ピアノが弾けないことを疑われてキーボードを捨てた理由を聞かれているのに(そして耳が聞こえなくなった怒りと悲しみで捨ててしまったという設定なのに)、「部屋が狭いから」と答えてしまうゴーチ……

被写体がカメラを意識しているドキュメンタリーほどつまらないものはないと思いますが、その点で言えばこの『FAKE』は合格だといえます。自然体な佐村河内守の姿を存分に楽しめるので(ついでに猫の自然体な様子も楽しめます)。

 

佐村河内夫妻の愛の軌跡

このドキュメンタリー、森達也監督は撮影していくうちに、ゴーチの奥様への興味が膨らんでいったんじゃないかなと思ったりします。

奥様の素性については描かれていませんが、ゴーチと結婚したことで、実の両親とも絶縁に近い形であるようです。ゴーチのことは本当に愛しているようで、あんな騒動があっても変わらず(尚更?)、そばで支えているように見えます。

例えば、ゴーチが外部の人と会話をするとき、ゴーチは相手の言葉が聞こえないので、奥様が手話で通訳をしてゴーチに伝えなければなりません。つまり奥様がいなければ(手話通訳の人がいれば別ですが)、ゴーチは外部の人と会話ができないということになります。

一体ゴーチの耳はどれくらい聞こえているのか? ということは、このドキュメンタリー内でも特に明らかにしてはいません(個人的には、手話通訳が必要なほど聞こえないわけではないんじゃないかと思ってます)。果たして奥様はどう思っているんでしょうか。洗脳に近いようにも見えますが、お互いに愛し合っているのであればそれはそれで幸せなようにも見えるし、奥様も共犯であるのだとすれば、それはそれですごいとも思うし。

 

 

佐村河内守×新垣隆のビジネスモデル

 

映画の中で、「うちの番組にぜひ出て欲しい。絶対ふざけた内容にはしない」とテレビ局の人がゴーチを尋ねてくるのですが、ゴーチは出演を断ってしまいます。結局、その番組には新垣隆氏が出演するのですが、お笑い芸人に面白おかしくこの騒動をいじられている様子を見て、ゴーチは腑に落ちない様子なんですよね。それを見た森達也監督は、「佐村河内さんが出演していたら違った内容になっていたと思う。テレビには信念なんてなくて、素材に合わせて内容を考えて作っているだけ」というようなことを言って諭します。

ゴーチはメディアにバッシングされて傷ついている様子ですが、メディアを利用していたのもまた、ゴーチなんですよね。

誰もがおわかりの通り、音楽で食べていくのはひっじょーに難易度の高いことです。

音楽で食べていこうと思う時点でそれなりの才能はあるわけで、そもそもほとんどの一般人の耳では音楽のレベルなんて大してわからないので。それこそ新垣隆さんがそうであったように、優れた能力があるからって有名になれるわけじゃないんですよね。

そうなってくると必要なのはブランド力。それは家柄であったりルックスであったりしますが、障害を持っている、ということもそれに含まれます。古くはベートーベンや宮城道雄のように、障害を持っている音楽家というのは結構いるんですよね。

そういった意味で言うと、この佐村河内守×新垣隆によるビジネスモデルは、これからも起こりうるのかもしれません。

二番煎じする方々は、本当に障害がある方に参画してもらうことと、周囲は口が堅い方で固めること、くれぐれも金銭面で揉めないこと、この3点に気をつければうまくいくのではないかと思いますが、果たして。